日本経済史
1.戦後復興期
① GHQによる復興
1945年第二次世界大戦は終結し、日本経済が(GHQ※) <アメリカ軍> 主導のもと立て直されていった。資金面の援助として、アメリカから国民の生活向上のための 生活救済資金である(ガリオア※)資金と、工場の再整備である産業 復興資金である(エロア※)資金が提供された。
さらに、GHQは(三大経済民主※)改革と呼ばれる改革を実行した。
① (農地※)改革…地主の農地を国が買い上げ、小作農家に安く売り渡すことにより、農家の生活を安定させる。
② ( 財閥※)解体…独占禁止法を成立させ、持株会社を禁止し、日本の植民地政策を後押しした四大財閥などのコンツェルンをそれぞれ数百社の会社に分割した。
③ ( 労働組合※)の育成…治安維持法で禁止されていた労働組合の活動を活発にさせることにより、労働者の賃金水準、労働環境を改善させる。
②日本政府による復興
日本政府は、産業の中心となる産業を集中的に育成すれば、そのほかの産業にもその効果が広がっていくと考え、石炭産業と、鉄鋼産業を集中的に支援して、これらの産業を中心に日本経済全体を復興させていこうとした。この政策のことを(傾斜※) 生産方式という。その後「電気」産業と、「肥料」産業もその対象に選ばれた。
しかし、これらの産業を支援するために、復興金融金庫に復興金融金庫債を印刷して借金をすることを認め、その復興金融金庫債を日本銀行が買い取り、日本銀行が復興金融金庫が望むだけお札を印刷して、復興金融金庫が貸し出すお金を作った。
日本銀行がお金を発行し続けた結果、1年間で物価が200倍になるほどの(ハイパー※)インフレ [超インフレ] が発生した。
[現在は(市中消化※)の原則により、国債を日本銀行が直接引き受けることは禁止されている。]
インフレに苦しんでいた1949年、GHQは日本の急激なインフレを抑制するために、経済専門家としてジョセフ・ドッジ [デトロイト銀行の頭取] を呼び寄せた。ドッジはインフレを抑制するために(ドッジ※) ・ラインと呼ばれる政策を実施した。
国民の支出を減らすため(増※)税をし、政府の支出を減らすため(予※)算 を削減し、国民にお金が出回らないようにすることによってインフレを抑制させようとした。
しかし、これは戦後の貧困状況の日本にとっては厳しい政策であり、日本は不景気になった。
そこで、ドッジは1ドル=(360※)円 という輸出に有利な円安為替レートの設定による輸出振興政策を行ったが、この政策は日本を不景気から救うほどの大きな効果を与えることはできなかった。
しかし、1950年の(朝鮮※)戦争で、日本に駐留していたアメリカ軍が朝鮮に出兵するため、必要な物資を日本で調達し、日本製品は売れ、日本は好景気を迎え、経済状況も戦前の状態まで回復した。この好景気を( 特需※)景気という。
2 .高度経済成長
特需景気後の15年間にわたって日本は急激な経済成長を果たし、この時期のことを(高度経済※)成長という。
年号 |
好景気 |
出来事 |
特徴 |
1955
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( 神武 ※) 景気 |
・耐久消費財ブーム [(三種※)の神器=冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビ]
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海外からの新技術の輸入により、会社の規模が拡大したことによる好景気 |
1958
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岩戸 ※) 景気 |
・チキンラーメン発売 [1958]
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1963
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オリンピック ※) 景気 |
東京オリンピックのために、(公共※)事業が急増 [高速道路、新幹線など] したことによる好景気 |
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1965
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いざなぎ ※) 景気 |
・新三種の神器 [(3C※)] =カラーテレビ、クーラー、車
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造船、鉄鋼、石油化学などの(重化学※)工業が国際競争力を持ち、輸出が拡大したことによる好景気 |
1973 |
( 第 一次 ※) 石油危機 |
高度経済成長の終了 |
※1960年に総理大臣に就任した池田勇人首相は「10年間で日本のGNPを2倍にする」と言う計画である国民所得倍増計画を発表したが、実際には7年目にして実現した。
※このような奇跡的な経済成長を達成することができた主な原因には次のようなものがある
① 活発な(設備※)投資・・・もうけたお金でさらに会社の規模を大きくし、会社が成長。
② 勤勉な日本人・・・日本人は安い給料で、長時間もくもくと働く。
③ 日本人は貯蓄性向の高さ・・・銀行に豊富な資金がたまり、銀行からの(間接※)金融により会社が資金を調達しやすい。
④ 円安 [1ドル=(360※)円 ] の為替レート・・・輸出に有利な為替レートにより、輸出を伸ばす。
⑤ 政府の産業優先政策・・・国民の生活向上よりも産業の発展を重視した政策を行う。
[産業優先の政策を行ってきた結果、(公※)害も悪化した。]
⑥ 安い石油の利用・・・安い石油を大量に使うことにより、(重化学※)工業を発展させる。
[当時は石油が安く、安くて使いやすい石油が大量に輸入され、1960年代にはエネルギーの主役が(石炭※)から石油に移行する(エネルギー ※)革命が起きた。しかし、日本の経済成長を助けたこの石油に、日本はその後苦しめられることになった。それが石油危機である。]
3 .石油危機
①1973年、(パレスチナ※)をめぐってイスラエルと周辺アラブ諸国との戦争である(第 四次中東※)戦争が起きた。その時、多くのアラブ諸国が加盟する(OPEC※) は、戦争を有利に働かせるために、石油価格の値上げと、イスラエルを支援するアメリカなどへの石油の輸出禁止を宣言した。
この結果、石油の値段が4倍にまで値上がりし、日本をはじめ、エネルギーをOPEC加盟国からの石油に大きく依存していた国々は石油不足により経済的混乱に陥りました。この事件を(第一次石油 ※)危機という。
②日本は石油不足のため、各工場の生産用機械が起動せず、石油を原材料とするプラスチックなども生産が落ち込み、1974年には戦後初の(マイナス※)成長 まで経験した。さらに、石油の値上がりにより、そのほかの商品の物価も上昇してしまったため、不景気にもかかわらず、物価まで上がってしまうという(スタグフ※)レーションが起きた。
③日本企業はそんな不景気から脱出するために効率的な企業経営 [(減量※)経営] を目指すようになり、その代表的な例が積極的にコンピュータを導入し、企業をOA化する(ME※)革命である。
さらに、鉄鋼、造船、石油化学といった石油を大量に使う大規模な(重厚長大※)産業から、家電、自動車、コンピュータといった石油をあまり使わなくてすむ加工組立中心の( 軽薄短小※)産業に主力産業が移行した。この流れの中、家電・コンピュータでは企業が急成長し、不景気から脱出できた。
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④しかし、1979年に今度はイラン革命をきっかけに石油の価格が値上がる(第二次石油※)危機 が発生し、世界は再び不景気に見舞われたが、日本は軽薄短小型の産業への移行がうまくいっていたため、世界中の国々が不景気に苦しむ中、その後も安定した成長を続けることができた。
テレビや自動車などの形のある商品のことをハードというのに対して、アイデアや音楽、映像といった形のない商品のことをソフトといい、この頃の日本経済の状況を(経済のソフト※) 化・サービス化と表すことがある。
また戦後の日本のように、経済が発展していくに従って、第一次産業 [農業など] 就業者が減少し、第二次産業 [工業など] 就業者が増えた後、最終的には第三次産業 [サービス業] 就業者の割合が一番多くなることを(ぺティ・ クラーク※)の法則という。
4 .バブル経済
①第二次石油危機の影響でアメリカは第二次石油危機の影響を受け、不景気に苦しんでいた。
当時、世界は各国通貨の両替価格が毎日変動する(変動※)相場制に時代に入っており、そんな中、アメリカ大統領レーガンは「ドル高=強いアメリカの象徴」と考えて、(ドル 高※)を進める政策を行なった。そして、これが輸出には不利であったため、輸出が伸びず、さらに経済的に苦しい状況に追い込まれた。
②困り果てたアメリカは、1985年にニーヨーク・プラザ・ホテルに日本、ドイツ、イギリス、フランスの大蔵大臣 [現在の財務大臣] と中央銀行総裁 [日本の場合は日本銀行総裁] を招待して、(G※) 5と呼ばれる会議を開き、5カ国が協力して、ドル安の方向に持っていくことをお願いした。このことを(プラザ※)合意という。
③5カ国はそれぞれの国の中央銀行の金庫に保有していたドルを市場に売り出し、ドル安の方向に持っていくことに成功したが、このことで円が高くなり日本の(輸出※)が伸びなくなり、(公 定歩合※)を2.5%に引き下げて、不景気になっても各企業が資金を調達しやすい状況を整えなければならなくなった。
④しかし、実際には日本企業は外国から安い原材料を輸入して生産費を節約したりして、思ったよりも不景気にはならなかった。結果、不景気でもないのに、銀行からはかなり安い利子でお金が借りることができるという状態が発生した。
⑤日本銀行の公定歩合引き下げ政策により、銀行から安い利子でお金を借りることができたため、銀行からお金を借りて、(土地※)や株式を買おうとする人たちが出てきた。その後、これらの値段は一貫して上昇を続け、日本は好景気を迎えた。
一生懸命働いて何かを作り出したのではなく、持っていた商品が値上がりすることによる好景気だったため、この好景気のことを(バブル※)景気という。
⑥1990年、急激な土地や株価の値上がりを警戒し、政府も危険を感じ、日本銀行は公定歩合を6.0%まで引き上げ、各銀行のお金の貸出の利率を引き上げた。
⑦銀行の貸し出し利率が高いため、企業は仕事に必要な資金を、自ら所有している高い値段のついた株式や土地を売ることによって調達し始めた。多くの企業が株式や土地を売るようになり、株式や土地の人気がなくなり価格も下落を始め、(バブル※) がはじけることになった。
⑧この結果、銀行には貸したのに戻ってこないお金である(不良※)債権が貯まり、貸し出す資金を十分確保できず、企業に対してお金を貸し出すことを控える(貸し ※)渋りをするようになった。
5 .バブル崩壊後の経済政策
バブル経済の崩壊後、就任したそれぞれの首相たちは「景気の回復」「経済の安定」を目標にさまざまな政策を行った、
●橋本内閣 [1996~1998年]
景気政策を行おうにも十分な財政資金が確保できないため、たまった日本の借金を返すために、国債の発行のゼロと、政府の収入を増やすことを目標に掲げ、次のような(財政構造※) 改革法を制定した。
① ( 消費※)税を3%から5%に値上げ
② それまで不景気対策として行われていた(所得※)税の特別減税を停止
③ サラリーマンの(医療※)費自己負担がそれまでは1割でよかったのを2割負担に値上げ [現在は3割]
しかし、 1997年、タイの通貨であるバーツが急激に値下がりし、東南アジアを中心に経済が混乱する(アジア通貨※)危機が発生し、東南アジアの不景気が日本にも影響した。
1998年の経済成長率も1974年の石油危機の翌年以来の(マイナス※)成長を記録し、橋本首相による借金返済計画は(アジア通貨※) 危機により失敗した。
●小渕内閣 [1998~2000年]
小渕首相により、先代の橋本首相が目標とした国債ゼロ、借金返済の計画は撤回され、景気回復のため、再び大量の国債が発行された。
小渕首相は特に、バブル不況により銀行などの金融機関が(不良※)債権を抱え、彼らが(貸し※)渋り を行っていることが、日本経済がいまだに不景気を脱出できていない大きな理由と考え、次のような(金融※)再生法を制定した。
① (金融※)庁の設置・・・倒産しそうな銀行を調べて、実際に倒産した場合はその後始末を支援し、国民への被害を最小限にする。
② (公的※)資金の注入・・・大銀行に限り、倒産しそうな銀行には、税金の中から資金を提供し、つぶれないように助ける。
③ ( ペイ※)オフの凍結・・・(ペイ※)オフ [銀行がつぶれても、1000万円を超える預金は返ってこない制度] を2002年から実施する予定を2004年まで先送りし、国民の不安を減らし、銀行に預金が集まるようにする。。
※それまでは、銀行がつぶれても、政府機関である(預金保険※)機構 が預金者の預金を全額保護して助けてくれたが、この時期は銀行の倒産も多く、2002年からは銀行がつぶれても、1000万円を超える預金は返ってこないこの制度を実施することにしていた。
[この制度はさらに1年延長され、2005年の4月から完全実施されている。]
●小泉内閣 [2001~2006年]
小泉首相は、慶応大学教授の経済学者竹中平蔵氏を民間から大臣に就任させ、(経済諮問※)会議 における話し合いで、多くの次のような経済政策を打ち出した。
① (聖域なき構造※)改革・・・特殊法人・郵便局の民営化、三位一体改革、年金改革などによる財政支出の削減による財政再建。
② (不良※)債権の処理・・・銀行が抱える不良債権を減らし、金融機関の営業を正常化へ。
③ (デフレ※)・スパイラルの解消・・・不景気に伴う物価下落 [デフレーション] 傾向に歯止めをかける。
※②の具体的な政策
ア、(産業再生※)機構を設立し、銀行に返せそうもない借金 [不良債権] が多いために倒産しそうな会社でも、やり方次第では建て直せると政府が判断した場合に、その借金を一時的に肩代わりさせた。
イ、(整理回収※)機構という、銀行の返してもらえそうもない貸した金 [不良債権] を専門に回収する機関を作った。