1.1940・50年代(東西冷戦の始まり)
①1945年(東西冷戦の始まり)1
1945年、アメリカの;ルーズベルト:大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連の;スターリン:が集まり、;ヤルタ:会談を開いた。この会談のポイントは3つ。㋐ ヨーロッパと ドイツを東西に分断し、東側はソ連、西側はアメリカが中心となって支援していくこと。㋑ ソ連が日本に進軍してアメリカを支援する代わりに、日本の;北方領土:をソ連の領土にすることをアメリカが認めたこと。㋒ 戦後に設立する予定である国際連合において、常任理事国の五大国に;拒否:権を与えること。
②1945年(東西冷戦の始まり)2
ヨーロッパの真ん中の西側陣営と東側陣営を分ける国境線をイギリスのチャーチルは「;鉄のカーテン:」と表現した。実際の戦闘はなかったため、両陣営の対立は冷たい戦争と表現され、;資本:主義が正しいと信じるアメリカと;社会:主義が正しいと信じるソ連による 東西冷戦が始まった。
③1947年(東西冷戦の激化)
アメリカ大統領は、ソ連の「封じ込め政策」を宣言し、;トルーマン:=ドクトリンと呼ばれた。 アメリカは、ヨーロッパ諸国の経済復興に対する経済援助である;マーシャル:=プランを発表した。 ソ連と東欧諸国はこの援助をアメリカの帝国主義政策であると非難し、これに対抗するために;コミンフォルム:を結成した。
④1948・48年
ソ連のスターリンは、東ドイツにあるアメリカ側の都市西ベルリンに通じる道路と鉄道を封鎖し、;ベルリン:封鎖を行った。 西側12カ国は、反ソ軍事同盟である;NATO:(北大西洋条約機構)を結成した。アメリカの;マーシャルプラン:に対抗して、ソ連と東欧の社会主義国家間の経済援助体制である;コメコン:を結成した。
⑤1950年
;アメリカ:が支援する大韓民国が、;ソ連:が支援する朝鮮民主主義人民共和国が誕生し、1950年に北朝鮮軍が韓国に攻撃を仕掛けたことから、朝鮮戦争が勃発した。日本を占領していたアメリカ軍が救援に駆けつけ、;中国:が部隊を派遣し北朝鮮軍を助け、ソ連は北朝鮮に武器や物資の援助をした。1953年、韓国と北朝鮮は国境の町、;板門店:で休戦協定を結び、休戦。
⑥1955年
㋐NATOの結成に対抗し、東側も軍事同盟;WTO:(ワルシャワ条約機構)を結成した。㋑国境をめぐる問題からソ連と対立した社会主義国である中国の;周恩来:首相はインドの;ネルー:首相と話し合い、インドネシアでアジア、アフリカの国々と国際平和について話し合う;バンドン:会議(アジア・アフリカ会議)を開き、;平和:十原則をまとめた。日本も参加した。㋒ソ連の;スターリン:が死亡し、スイスで、アメリカ、ソ連などのリーダーが集まった;ジュネーブ:四巨頭会議が開かれ、米ソの対立が緩み、;デタント:といわれた。
⑦1956年
ソ連の指導者になった;フルシチョフ:書記長は、アメリカと強調していこうとする平和;共存:政策を打ち出した。 それをきっかに、東ヨーロッパの;ハンガリー:は;民主:化要求運動を起こしたが、ソ連は武力でこの運動を弾圧した。
@2.1960年代
①1960年
石油の価格を決定する権限を握っていた;メジャー:と呼ばれるアメリカ企業に対抗し、アラブの石油産出国は;OPEC:(石油輸出国機構)を結成し、石油価格のルールを決定をした。OPEC加盟国は;第三世界:の新勢力として注目されるようになった。1968年には;OAPEC:(アラブ石油輸出国機構)もつくられた。 1960年は;アフリカ:の年ともいわれ、アフリカのほとんどの国がヨーロッパ各国から次々と独立を果たした。
②1961年
;東ドイツ:の首都の東ベルリンで、ソ連はベルリンの壁を建設する。ソ連のスターリンは、考えの違いから社会主義国の;ユーゴスラビア:を東側の同盟から追放。この国は米ソに所属しない;第三世界:の道を歩み、チトー大統領の提案のもと、第1回;非同盟諸国:首脳会議が開かれた。
③1962年
キューバでは、;カストロ:の指導の下、社会主義革命が起こり、社会主義国が誕生した。キューバ国内にソ連の核ミサイル基地に反対し、アメリカの;ケネディ:大統領はソ連を相手に核戦争を起こす準備があることをソ連の;フルシチョフ:に伝えた。この事件をキューバ危機という。その後、ソ連はキューバからの撤退し、翌年からアメリカ大統領とソ連の書記長の間に;ホットライン:という直通電話が設置された。
④1963から66年
地下実験以外の核実験を禁止する;部分的:核実験禁止条約(PTBT)が結ばれた。 ;北ベトナム:をソ連、中国が、;南ベトナム:をフランス、アメリカが支持し対立が発生。アメリカは大量の兵を派遣し、ベトナム戦争が起きた。最終的に;ホーチミン:率いる北ベトナムがベトナムを統一し、1975年この戦争は終戦した。 1966年にフランス大統領;ド・ゴール:は軍事機構の;NATO:がアメリカ主導であることを批判し脱退。
⑤1968年
1968年、国連総会で;核拡散:防止条約(NPT)が採択された。この条約のポイントは次の2点。㋐ アメリカ、ソ連、イギリス、;フランス:、中国以外は、核兵器を持ってはいけない。㋑ ㋐の5カ国以外に核兵器を持っている疑いのある国は、;IAEA:(国際原子力機関)が、核査察を行う。東ヨーロッパのチェコスロバキアで民主化運動が起こり、;プラハ:の春と呼ばれた。ソ連は軍事機構のWTOを派遣し、この運動を弾圧。
@3.1970年代
①1972年
㋐中国では;共産党:(社会主義)と;国民党:(資本主義)が内戦を起こし、1949年に社会主義国である中華人民共和国を建国した。敗れた国民党は台湾に逃げ、資本主義国の中華民国を建国した。国連には;中華民国:が加盟し、;中華人民共和国:は加盟できずにいた。㋑アメリカの;ニクソン:大統領による中国公式訪問をきっかけに、中華人民共和国は国連に加盟することができ、中華民国は国連を追放されることになった。㋒アメリカとソ連の間で;SALT‐Ⅰ:(第1回戦略兵器制限条約)が結ばれ、核ミサイルのミサイル部分の数の上限を決めた。
②1979年
;SALT‐Ⅱ:(第2回戦略兵器制限条約)が結ばれたが、 アメリカはソ連軍の;アフガニスタン:侵攻に反発し、この条約を破棄した。また、西側諸国はソ連の;モスクワ:・オリンピックをボイコットした。
@4.1980年代、冷戦終結
①1985から88年
ソ連の書記長に;ゴルバチョフ:が指名され、アメリカと協力していく平和的な外交政策である;新思考:外交を打ち出した。 米ソの間で;INF:(中距離核戦力)全廃条約が結ばれ、中距離核兵器のミサイル部分の全部を廃棄する条約が結ばれた。 ソ連軍がアフガニスタンから撤退した後、オサマ・ビン・ラディンが支援する;タリバーン:政権が誕生。
②1989年(東西冷戦の終わり)
ゴルバチョフの新思考外交がきっかけとなり、東ヨーロッパの民主化の動きが活発化し、;東欧:革命と呼ばれ、ベルリンの壁も市民によって破壊された。アメリカの;ブッシュ:(父)大統領、とソ連のゴルバチョフ書記長が、;マルタ:会談において東西冷戦の終結を宣言。;ヤルタ:会談から始まった東西冷戦は終結した。
@5.冷戦後の世界
①1990・91年
東西;ドイツ:が統合され,ベルリンが首都になった。 米ソの間に;START‐Ⅰ:(第1回戦略兵器削減条約)が結ばれ、核ミサイルの核弾頭を30%捨てることに合意。ソ連国内は;ゴルバチョフ:の急激な改革についていくことができず、経済も混乱し、ソ連は12の国に分かれ、ソ連崩壊となった。
②1993年
ソ連消滅後、;START‐Ⅱ:(第2回戦略兵器削減条約)が、アメリカとロシアとの間に結ばれ、さらに50%の核兵器の廃棄に合意した。しかし、2001年にアメリカ;同時多発:テロ事件が起こり、;ブッシュ:(息子)大統領が軍備拡張へと転換したためにソ連はこの条約を破棄。
③1996年と2002年
全ての核実験を禁止した;包括的:核実験禁止条約(CTBT)が国連総会で採択されたが、;アメリカ:、中国などが署名しなかったため、この条約は現在実行力を持っていない。また、この条約は爆発する寸前までの;臨界前:核実験は禁止されていない。現在、核兵器の所有が確認されている国は常任理事国の五か国以外ではインド、;パキスタン:、北朝鮮となっている。 START‐Ⅱの代わりとして、アメリカとロシアが核弾頭を廃棄するための条約として;モスクワ:条約が結ばれた。